自分は特別な存在だと思うことについて
小さい頃(小学校低学年だったと思う)、子ども心にも自分の意識について考えていたことがあった。 「今こうしてモノを考えているのは自分だけの感覚」 「今こうしてモノを見ることができているのは自分だけの感覚」 「どうしてこの感覚を認識するのは他の誰かではなく『自分』なんだろうか」 「実は自分だけは人間ではない特別な存在なのではないのか」 と。 そうやって俺は「自分は選ばれし特別な存在」だと思って成長してきた。 程度の差こそあるだろうが、誰もがそのような考えを持って生きているんじゃないかと思っている。 少なくとも、小さい頃から20代前半に掛けてはそう思っていた人も結構いるんじゃないかな。
子ども向けの絵本や物語でも、大体が主人公の味方になってくれる小動物や妖精っぽい存在があったりして、主人公(=自分)が特別な存在になっていることからも、みんなその因子を持っていると思っている。
だが、今思うとただの中二病である。 大人になった今、そのような考えはほとんど消えてしまった。 様々な現実を受け入れざるを得ない状況になり、 自分はどちらかというとこの人間社会においてはほんの脇役に過ぎないのではないかと思うようになっていった。 俺が育った環境は、それほど悪くない。 実家はど田舎で決して裕福だったわけではないのだが、特に不自由な思いなどしたことはない。 学力も悪くはなかったし、運動神経は人並み以上だと思うこともあった。 身長は高くなれなかったが女子にモテないわけでもなく、何をやっても大体そつなくこなしてきた。 特に10代後半から20代前半に掛けての約10年間は輝かしい時代であった。 子どもの頃に考えていた「自分が特別」観とはちょっと異なる意味合いになってしまうかもしれないが、 この20代前半の頃が最も自分を特別視していたのかもしれない。 友人はかなりたくさんいたし、結構目立った存在になっていた。 地元で「俺を知らない奴はモグりだ!」などと吹聴していたことを覚えている。 女の子にもかなりモテた。 本気で「俺は誰か一人のモノにはなれない、みんなにとっての俺だ」などとまるでアイドルになりきったようなことを考えてたりした。 (世のアイドルが本当にそう思っているかどうかは知らないが) ハイ、アホですわ! 完全に周りが見えていない、典型的なバカですわ! もうね、第三者的に見てて恥ずかしい。 所詮この程度で浮かれているようでは進歩しないのだよ。 全て自分ひとりで育ってきたつもりで両親への感謝の念もあまりない。 挫折も知らず大した苦労もしていないくせに、この環境を築いたのは全部自分の実力だと思っている。 あの輝かしいと勘違いしていた頃に、もっと上を目指すような気持ちがあれば今とは違った世界になっていたのかな。 テレビやネット上で有名になっている人を見て、 「俺はあちら側の人間であるはずだったのに」 などと思うこともあった。 そこまで思わなかったとしても、 身近な友人が事業に成功したりどんどん出世したりするのを見ると、 「なんで自分じゃないんだろ」 と思ってしまったり。。。 他人と比較しても何もいいことはないということは知っている。 だが、自分はあちら側に行きたかった。 目指す目標がないくせに、そんなことばかり考えていた。 でも俺もそんなにバカではない。 大して苦労もしないで生きてきたのかもしれないけど、 負けず嫌いではあったので、社会に出てからも人より上を行くことを目指して生きてきた。 そのおかげで、社内でもそれなりの知名度は得ている。 でも所詮ここでも「それなり」止まりなのである。 何かが足りない。 「努力」か「運」か「実力」か「行動力」か「知識」か「忍耐力」か「向上心」か。。。 挙げればきりがないほどに出てくる。 やっぱ俺は特別な存在なんかではない。 いつまでも自分を特別な存在と思っていてはダメなんだ! ちょっと話がずれてきたかな。 軌道修正。 子どもの頃に感じていた世界観は哲学的な思考であり、 デカルトの「我思う、故に我あり」にちょっと近いのかもしれないが、 「何故に我なのか」 の解は未だ得ていない。 それよりも、成長の過程で思ってきた「自分を特別視」するのは、 明らかに自分の成長に弊害をもたらしてきたように思える。 「自分は特別だから…」 などという妄想にとり憑かれて、「努力なしでもある程度はなんでもできちゃう」と勘違いしてしまったケースだ。 しかも虚栄心が強い傾向にあり、見栄を張りやすい。 しかし、考え方次第では自分を特別視することによる利点もあると考えている。 「自分は特別」であり続けたいがために努力を怠らないケースがあると思う。 たぶん、アイドルを目指している女の子などはこの部類に入るんだろうな。 ちょっと古いが「東京大学物語」の村上直樹もこの部類なのだろう。 人よりも負けず嫌いの人は、自分を特別視している可能性が高い。 このタイプは、努力によってかなり高いポジションを得ることができるのかもしれないが、 一度落ちるととことん落ちてしまう危険性も孕んでいるように思える。
まあ、それよりも上を行くケースも想定できるんだけどね。 自分を特別視できるってことは、 何があっても「自分は特別だから乗り越えられるはず」 という思考を持てる人もいるはず。 そういう人が最強なんだろうけど、やはり何よりも自分が一番でないと気が済まないという気持ちが強いんだろうな。 それとは逆に、「自分は特別なんかではない」と考えている人はどうなのだろう。 これも利点と弊害の両方が考えられる。 「どうせ俺は特別じゃないさ」 というネガティブな思考の持ち主の場合は弊害でしかない。 高い目標を持つことができずにいつもどこかで諦めモードになってしまうだろう。 でも、 「自分は特別なんかじゃないから人より頑張らないと」 という前向きな思考であれば、自分を特別視している人よりも良い結果が出せるんじゃないかと思う。 このタイプは、一度落ちたとしてもまた這い上がってくることができるように思える。 このように考えていくと、 自分を特別視しないで謙虚に努力していく方がより良い世界観を手にすることができるような気がする。 あくまで持論であって何のデータも確証もないのだが、 これが「自分は特別な存在だと思うことについて」の俺の結論である。 ある意味暴論ともいう。 俺自身は決して特別な存在ではないから謙虚に頑張っていくよ。 そう考えている一方で、 実は「俺は特別な存在なんだ」と確実に実感する場面がある。 それは子どもと接しているときだ! 5歳の娘と3歳の息子がいるんだが、こいつらにとって俺は(今だけかもしれないけど)特別な存在であるようだ。 俺にとってもこいつらは間違いなくかけがえのない特別な存在である。 存在しているだけで感謝の念が生まれてくる。 そんなことを感じる瞬間が確かにあるのだ。 でも俺はこいつらに教えてあげたい。 自分は特別な存在であると思わず、謙虚に頑張っていく道を選ぶ方がいいと。 キミたちのことをいつまでも特別な存在として見てくれる人がいる。 それは俺やキミたちのママだ。 そのうち、キミたちにとって特別な存在が現れるだろう。 そして、キミたちのことを特別な存在として見てくれる人が現れるだろう。 それでいいじゃないか。 みつを ちょっと後半が雑になってすまん。
10連休里帰り
今週のお題特別編「はてなブログ フォトコンテスト 2014夏」
約1年半ぶりに故郷に帰った。
嫁と子どもたちは7月末に一足先に帰省していて、
自分はしばらくの間、関東で気楽な独身生活を送っていた。
8月9日からが会社の夏季休暇だったのだが、1日前にお休みを頂き、8日に飛行機で地元九州に帰った。
結果的に1日前に帰ってよかった!
9日の便だったならば、台風の影響で欠航していたところだ。
空港に着くと、子どもたちが走って抱きついてくれた。
久々に再会に涙が出そうになった。
この日から約1週間(8日~16日)、故郷に滞在することになる。
嫁も同じ故郷なので、お互いの実家を行き来しながら久々の家族団らんを楽しんだ。
夜はそれぞれの父親と酒を飲みながら会話が弾む。
8月13日、20代を謳歌していた頃の旧友を集めた。
あの頃はほんとにみんなバカでずっとこの楽しみが続くと思っていた、と思う。
少なくとも自分がそうだった。
後先考えず、ほぼ毎日飲んで過ごしていた。
あれから10数年。。。
自分は来年には40だ!
奇跡的にみんな集まることができた。
それぞれ家族を持ってとても幸せそうだ。
ほとんどが仲間うちで結婚したりしているのでホントにみんな昔から知っている「仲間」なのだ!
この日、みんなでBBQをした。
自然あふれる中でやるBBQは最高だね!
子どもたちは、誰かが持ってきた簡易プールで水遊びを楽しんでいた。
自分は久々仲間と会って、嬉しくて、ついつい飲み過ぎてしまった。
そんな酔った状態で撮った写真がこれ。
つまり自分は写ってない。。。
個人的にはとても楽しく面白い時間だったけど、
他の人が見ても特に面白いオチはなく、自己満的な、そんな夏の思い出です。
ちなみに、嫁と子どもたちはまだ地元で楽しんでいるようだが、九州は雨ばかりの日々らしい。
早くこっちに帰って来い!
さすがに一人暮らしに飽きてきた。
おわり
扇風機をつけたまま寝ると。。。
小さい頃に親に言われた言葉の中にはいくつか忘れないものがある。
「扇風機をつけたまま寝ると死んじゃうよ!」
例えばこの言葉は今でも心の隅に沁み付いているようで完全に消えていない。
幼い頃の自分にとって「死ぬ」というのはかなり衝撃的な言葉だったのだろう。
毎年、真夏の熱帯夜に扇風機をつけて寝るときにはいつもこの言葉を思い出す。
(今は「死ぬ」とまでは思っていないけど何か心に引っかかってるんだよね。。。)
小さい頃(1980年代)の自分の家には寝室にエアコンなどなく(いや今もか…)、
扇風機で暑さをしのぐしかなかったのだが、実際にはあまり扇風機は回していなかったように記憶している。
たぶん当時は今ほど暑くはなく、田舎だから窓を開けているだけでも幾分かは風が通って涼しかったのかもしれない。
(蚊取り線香付けて、蚊帳の中に布団敷いて、豆電球だけ点けて、父親が怖い話をしてくれて。。。ああ懐かしい!)
しかしある熱帯夜のこと、
うだるような暑さでふと目を覚ますと、両親が扇風機を回して起きていたことがあった。
小心者(ビビり)だった自分は、子ども心にも「うわ死ぬ!」と恐怖したことを鮮明に覚えている。
泣きながら慌てて「け、消してよくぁwせdrftgyふじこlp!うわーん」って言ったような気もする。
起きていた両親にとってはたまったもんじゃないよな。
くそ暑いし息子なに泣いてんだよ(困惑)
みたいなwww
ところで、なぜ「扇風機をつけたまま寝ると死ぬ」と言われていたのか最近考えていた。
「まあたしかに、ずっと扇風機に当たっているとちょっと体調が悪くなるときもあるし、度が過ぎると死ぬこともあるのかもな」
と医学的知識もない自分はそう思っていたときもあったが、
ここ数年では、
「どうせ躾の一環としてか電気代が掛かるとかでか知らんが、扇風機をつけて寝ないように脅かしてたつもりなんだろ?」
と冷静さを装って自分の中で解決させていた。
そのつもりだった。
だが、まさに今日、偶有的に真相を知ることになった!
扇風機をつけたまま寝ると死ぬって本当? | 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社
この話、マジだった。
実際にググってみると、自分の家だけで言われていた言葉じゃなくて、ある程度みんな知ってんじゃん!結構有名ぢゃん!
今まで誰ともこんな話はしたことなかったからこんなに有名な話なんて知らなかった。
まあ一部では都市伝説としながらも、
「70~80年代を中心に、実際の死亡例が新聞などで報じられています。
例えば72年の毎日新聞では、風呂上がりに扇風機をつけっ放しで寝た男性が、心臓麻痺で死亡したという記事があります。
その後も70~80年代には断続的に似たような死亡事故が報じられており、87年の同紙では、
『都内では86年にクーラー・扇風機が人を殺す例が5件あった』とも書かれています」
(医療ジャーナリスト・森田豊氏)
「扇風機に当たったまま寝ると死ぬ」はホント!クーラーでも | 日刊SPA!
って何これ?
つまり両親は本気で言っていたことになるんだよなぁ。
新聞やテレビのいうことは「絶対!」みたいな時代(世代)だからなぁ。
いやあ、「どうせ脅かしていたんだろ?」などと疑ってすまんかった!
でも待てよ。
これって穿った見方をしてみると、
「心臓麻痺で亡くなった人がたまたま扇風機を消し忘れてただけなんじゃないの?」
⇒死因が扇風機だとは特定できないよね
「寝たまま亡くなる人の数ってどれくらいだろ?その中で扇風機をつけたまま寝る人割合は?てか、都内で5件って多いのそれ?」
⇒少なからず何件かは同じ状況(扇風機つけたまま亡くなること)はあり得るよね
「マスコミってさ、センセーショナルで似たような事件や事故があると続けて報道する性質があるよね」
⇒似たような事件や事故を続けて報道することによって、愚民はそれを信じ連日そればかり起こっていると洗脳される
まあ「70~80年代には断続的に」っていうくらいだから、実際の発生(報道)件数はそんなに多くなさそうだけどね
これらを総合すると(いや別に普通に考えてもwww)、やっぱ鵜呑みにするわけにはいかない。
ちなみに、穿った見方(うがったみかた)というのは、
「疑ってかかるような見方」という意味で捉えられがちみたいだけど、
本来は「表面的でなく、真相に迫った鋭い見方」という意味です。
最終的な結論として、
や
を見てみると、
やっぱ扇風機をつけたまま寝ても死ぬなんてことはないみたいね。
というか実体験として、実際つけたまま寝てても今まで死んでないし、自分。
いや、だけど例えば、寒い冬の日に水をかぶって扇風機に当たりながら裸で寝たらさすがに死ぬかもしれんなwww
でもまあ、小さい頃の自分のトラウマのおかげで扇風機をつけたまま寝ることは実はあまりない。
朝起きた時にのどがカラッからになっているのも気持ち悪いし、首を振ってリズムモードにして、忘れない限りはオフタイマーを掛けて寝ている。
当然エアコンもタイマーで消す。
なんというか、小さい頃に親に言われた衝撃的な言葉って、ずっと自分を支配するんだなあと思った。
理性的には完全に乗り越えているんだけど、深層心理の中で僅かでも生き続けているって話。
嗚呼、今夜も暑いなぁ。。。
おわり